---Triangle
日差しの中に、無数の水滴が降り注いでいた。
アスファルトがたちまち黒く濡れる。
それは本物の雨ではなかった。
ロケのスタッフが用意した人工の雨。
濡れているのは、端から見ていればほんの小さな空間にすぎない。
しかし、VTRの中では、それが本物の雨に見えているはずだ。
その人工雨が降り注ぐ中に立っているのは一人の青年。
ワイシャツとスラックス姿だが、着ているものは水気を含んで身体にまつわりついている。
濡れた髪が貼りついた白い顔は、悲しげに伏せられていた。
スタンバイしていた部屋着姿の女性が、彼の立っている雨の中へ駆け込んでいく。
気付いて顔を上げた彼を、女は睨みつけた。
「何、やってるのよ?!」
彼は何か答えかける。だが、女は彼に何も言わせずに彼に唇を重ねた。
辺りは静かだった。
大勢の人が・・・スタッフだけでなく、ロケをやっていると知って集まってきた野次馬たちが周囲を取り巻いていたが、
誰もが息を詰めていた。
テレビを見る人達は、恋人たちが二人きりでの切ないシーンに思うだろう。
こんなに大勢のギャラリーに囲まれているとは思いもせずに。
長い長い間の後、やっと「カット!」の声がかかった。
雨が役者の上から逸れて勢いを失い、彼と彼女は何事もなかったかのように他人に戻る。
それを見ては、少しホッとした。自然と身体に力が入っていたことに気付き、人知れず苦笑する。
演技を終えた二人は、VTRを確認するためがいる方へと歩いてきた。
は思わずドキドキした。近付いてくる二人に何か言おうと思うが、気の利いた言葉が思いつかない。
も出演者の一人だったが、この連続ドラマの主役とヒロインを務める二人とは格が違いすぎた。
それに・・・彼、このドラマの主役である堂本光一は、芸能界に入る前からの憧れの人でもあった。
二人は現場の片隅にいるのことを気に留める様子もなく、監督やスタッフと話しながらVTRを確認していた。
は光一の横顔を盗み見ることしかできなかった。
その後も、雨の中のキスシーンは、アングルを変えて何カットも撮られた。
はそれを一人複雑な気持ちで見ていた。
そして、光一に挨拶以外のことは言えないまま、短い自分の出番を終えた。
☆☆☆
それから1年以上が過ぎた。
アイドルとして徐々に名前が売れ始めたは、その番組に出られることになって有頂天だった。
ずっと憧れていたキンキ・キッズの剛くんとデートするという番組である。
少数のスタッフと剛と共に、はテーマパークでのデートを撮影した。
剛と直接会ったのは初めてだったが、TVで見ていたとおり、不器用だが優しい印象だった。
喋るのにあまり慣れていないに気を使ってか、剛は色々話しかけてくれた。
そういう剛の態度に勇気をもらって、撮影終了後、は思いきって剛に声をかけた。
「お疲れさまでした」そう言って、ロケバスに乗り込もうとする剛をは呼びとめる。
「あの、剛くん・・・」
はい?と剛は不思議そうに振り向いた。
その顔を見ると、の心臓は一層激しく打ったが、呼びとめた以上後には引けないと思った。
「今日はありがとうございました」
「いや、どうも・・・」
「それであの、本当にお友達になってもらえませんか?」
が一息に言うと、剛はちょっと驚いた様子だった。
「・・・それは、まあ・・・」
「私、今度CD出すんですけど、音楽のこととかよく知らなくて。剛くんは曲とか書いてますよね?
だから色々教えて欲しいと思ってるし・・・ダメですか?」
「オレで判ることだったら、それはええけど・・・」
「じゃあ、携帯のアドレス教えてもらってもいいですか?」
「うん・・・」
アドレスを交換して剛と別れた後も、の胸はまだドキドキしていた。
変に思われたかもしれない。それでも構わないと思った。
1年前のように、ただすれ違っただけでは終わりたくないと、今回は心に決めていた。
自分の携帯に剛のアドレスが登録されている・・・それだけでとても幸せだった。
☆☆☆
それから、は剛に定期的にメールを送りつづけた。
しつこくしたら嫌われるかもしれないと思ったが、忘れられたくなかった。
仕事の悩みや、日常の些細なことなどを、2・3日に一度書いた。
剛の返事は数回に1度、ごく短いものが返ってくるだけだったが、構わなかった。
2ヶ月ほど経ったある日、携帯に剛からメールでなく電話がきた。
はドキドキしながら電話に出た。
「はい・・・」
『堂本ですけど。・・・久しぶりです』
剛の声が耳元に聞こえてくる。はそれだけで嬉しくて自然と声が弾んだ。
「そうですね。どうしたんですか」
『あのな、気を悪くしないで欲しいんやけど・・・』
剛の前置きを聞いて、の膨らんだ期待はたちまちしぼんで落下した。
『ちゃん、いつもメールくれるやんか。気持ちは嬉しいねんけど、オレあんまり返事できへんし、
心苦しいと思ってて・・・』
「はい・・・ごめんなさい」
『いや、ちゃんが悪いんやないから、謝ることないんやけど、オレには正直ちょっと負担になってる部分があるから。
ほんまにちゃんが辛くてどうしようもなくて、助けて・・・っていうときやったらオレも頑張るけど、
そうでなかったら、少し休んでくれへんかな』
「・・・・・」
『・・・ちゃん? 大丈夫?』
「はい、大丈夫です。そうですよね、いきなり友達って言っても無理でしたよね」
『・・・ごめんね。オレ、今は仕事が大事やし、あんまり余裕ないんだよね』
「分かりました。わざわざ電話してくれてありがとうございます」
『ちゃんのこと、どうのこうのと違うから。落ちこんだりしないでね。じゃあ、おやすみ・・・』
「おやすみなさい・・・」
切れた電話のコール音を、はしばらく聞いていた。
つながったと思っていた細い糸がプツリと途切れてしまった。
キンキ・キッズに会いたくて芸能界に入りました、と剛に言っていたらなんと言われただろう。
甘えるなと言われたかもしれない。
そんな気持ちでやっていける世界でないことは、も分かっている。
いや、恐らくどんな仕事だってそうだろう。
今まで頑張ってきたのは他の誰かのためではなく、自分のためだった。
でも心に穴が空いたような気持ちになるのはどうしようもなかった。
☆☆☆
それから更に2年余りが経った・・・。
キンキの二人とは、音楽番組などですれ違うことはあっても、その他大勢の一人として挨拶を交わすことしかなかった。
は剛との一件以来、憧れは憧れとして、自分は自分で前を向いて行けばいいと自分に言い聞かせていた。
ところが、そうして吹っ切った後になって、意外な仕事が舞い込んできた。
二人が司会を務める音楽バラエティのレギュラーメンバーだった。
は運命の皮肉を感じたが、そういうものかもしれないと思った。
今だったら、二人と顔を合わせてもプロとして向き合える気がした。
「今日からレギュラーに入ることになりました。よろしくお願いします」
は番組のプロデューサーに連れられて、「KinKi Kids様」と書かれた楽屋に挨拶に行った。
鏡の前で髪を直していた光一は振り向いて、「はじめまして〜。よろしくお願いしま〜す」と言い、
部屋の隅で壁にもたれてギターをいじっていた剛も、手を止めて「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「あの・・・初めてじゃないですよ」
が言うと、光一は慌てたように「そうだよね、他局の音楽番組で会ってるよね」と取り繕う。
「それもありますけど、光一くんが主演してたドラマに私出てました。チョイ役でしたけど」
「え〜・・・うっそお。・・・ごめん、覚えてへんかった」
恐縮する様子の光一に、は微笑む。
「大丈夫です。一緒の現場に入ったの1日だけでしたし、無理ないですよ」
そして、は剛に「お久しぶりです。覚えてくれてますか」と声をかけた。
「あれ、剛も会ったことあるんや」
「うん。前、しんどいに出てもらってん」
「その節はご迷惑おかけしました」
が言うと、剛はちょっと困ったような顔をした。
「・・・いや、そんなことないよ」
「なんや、なんかあったんか?」
「別に・・・」
「なんか怪しいなぁ」
光一がふざけて水を向けても、剛はポーカーフェイスを決めこんでいた。
「今夜の焼肉は、ちゃんの歓迎会を兼ねるからね」
プロデューサーが言うと、二人は低い声で「オイッス」と返した。
☆☆☆
その日の分の収録を無事に終えて、いつものメンバーがいつもの焼肉屋に集まった。
その店ではいつも個室が用意されているので、人目を気にする必要もなく、一堂はくつろいでいる。
ブラザートムが、先刻から今日の主役であるの身上調査のような質問を次々と投げかけていた。
が愛想よく応えているのを、剛は斜め前の席で、薄めにしてもらったウーロンハイを飲みながら見ていた。
2年前より、は各段に大人びたように剛は感じた。
あのときは、見た目も態度もひどく子供っぽく思えた。
頻繁にメールを送ってこられたときは、正直うかつにアドレスを教えたことを後悔した。
だが、もう送らないでと言った時のの引き際のよさも印象に残っていた。
あの頃、は音楽のことを何も知らないと言っていた。
メールの内容を思い出すと、それがあながちウソだったとも思えない。
だが、今日コーラスとして参加したは、スタッフやバンドメンバーとの打ち合わせにもしっかりした態度で応じていた。
この2年間のの努力が形になっているということなのだろう。
「ちゃんは、どうやって芸能界に入ったの?」
ブラザートムは、先刻から矢継ぎ早に出身地や家族構成などを聞き出していたが、そんな質問をしたのが剛の耳に入ってきた。
「自分で事務所に履歴書を送ったんです」
少し恥ずかしそうにが答えた。
「そうなんだ! やっぱり芸能界に憧れてたの?」
「そうですね。それに、芸能人とお友達になりたいな・・・なんて思って。ミーハーだったんですよ」
「へえ〜。芸能人って、誰、誰?!」
ポンポンと質問していくトムに、はテンポよく応えていたのだが、ここで初めて言い淀んだ。
の隣、剛の向かいに座っていた光一が声を潜めてアドバイスする。
「・・・こういうときは、トムさんです、って言うんやで」
は笑って、「もちろん、トムさんもです」と言った後、「それとキンキ・キッズさん」と付け加えた。
「またまた、上手いな〜」と光一が笑う。
「やった! オレだ!」とトムもノる。
「本当ですよ。デビュー前からファンだったんです」
「“だった”ね! 多いよね、“だった”っていうの・・・」
「いえ、今でもファンですよ」
「ほんま〜? どっちファン?」
光一の質問を聞いて、剛はちょっとドキリとした。
は「ご本人を前に言うんですか・・・」とちょっと恥ずかしそうだ。
「じゃあさ、じゃあさ、天然ボケと分かりにくい長いボケ、どっちが好き?!」とトムが茶々を入れた。
一堂がその言葉に笑い声を上げる。
も笑いながら、「それはどっちも好きですね」と言った。
「言うとくけど、オレは天然ちゃう! 全部計算や! な!」
光一はそう言いながら、剛の顔を覗きこむ。
満面の笑みにふいをつかれて、剛も思わず笑みをこぼす。
「おまえは天然やって」
「違〜う。計算や」
「そう思ってるのおまえだけや」
剛にそう返されて、満足そうに笑っている相方を剛は可愛らしいと思ってしまう。
「ちゃん、こいつら好きだったら、付き合っちゃったら?!」
トムが大きな声でそんなことを言い出したので、また剛はドキリとする。
「こいつら今、プライベートは淋しいから、チャンスだよ」
「そうですね、付き合っちゃいましょうか・・・」
が笑顔で軽く言ったのに余裕を感じて、剛は再びの成長を見た思いがした。
「じゃあ、二人の電話番号教えるから、ちゃんの携帯、オレに教えて」
「トムさん! オレらダシにしてナンパしないで下さいよ!」
光一が大きな声でツッコむと、一堂がドッと笑った。
剛も一緒になって笑いながら、視線がに向いている自分を意識し始めていた。
☆☆☆
3週間後、再びレギュラーの音楽番組の収録があった。
光一がいつものように楽屋に入っていくと、中には誰もいなかった。
スタッフから剛が先に到着していると聞いていた光一は意外に思う。
剛のギターと荷物は置いてあったから、到着してはいるらしい。
剛と打ち合わせたいことがあった光一は、トイレにでも行ったのだろうか、と思う。
そのうち来るだろうとは思ったが、まだ時間があったので、光一はスタジオを覗くつもりでブラリと楽屋を出た。
顔見知りのスタッフや出演者たちと挨拶を交わしながら、収録スタジオに向かう。
スタジオに近付いていくと、既にリハの準備が始まっているらしく、チューニングの音が聞こえてきた。
スタジオに入りかけた光一は、視界の隅に見なれた姿を捉えた。
見ると、剛の後姿が階段の踊り場にあるのが分かった。
誰かと立ち話をしているらしい。相手の姿は、光一からは死角になっていた。
「あのときは、ごめんね。気にしてたんと違う?」
なんの気なしに剛に近付いていった光一は、剛のそんな言葉が耳に入ってふと足を止めた。
「いえ、そんな、気にしないで下さい」
明るく答えた声は、だった。
「これからしばらく一緒に仕事していくのに、なんか恨まれてたらいややなと思って・・・」
「そんなこと、全然ないですから。むしろ私の方がご迷惑かけて謝らなきゃいけない方ですから」
「それやったらいいんやけど・・・」
ホッとしたような剛の声を聞いて、光一は二人に気づかれないようにそっとその場を離れた。
楽屋に戻り、今日の進行表にを手にとって視線を落したが、すんなりと頭に入ってこなかった。
剛に対して「水臭い」という気持ちが先に立つ。
あの様子だと、過去にが剛に告白して剛が断ったとか、そういったことだろうかと思った。
普段から剛との間で女のコの話をすることもないし、過去に終わったことまで剛が言わなかったのも無理なかったが、
光一は少しだけ淋しさを覚えた。
☆☆☆
その日も収録後、いつものようにいつもの焼肉屋で打ち上げがあった。
「なんやねん、さっきから・・・」
剛に言われて、光一は自分が剛のことをジッと見ていたことに気付く。
「別に」
「そんなに睨まなくても、もうウーロン茶にするから」
剛は自分で光一の視線の理由を見つけたようだった。確かに酒に弱い剛にしては、いつもより杯を重ねている。
明日も朝から仕事が入っているから、光一が飲み過ぎを心配していると剛は解釈したらしい。
「やっぱり二人は、仲がいいんですね」
さっきまで由美と話しこんでいたが、二人のやり取りに気付いて微笑みかけてくる。
「なんで。普通やで」
光一はつられて笑みを浮かべたが、そう言いながら目を逸らす。
なんとなく、の顔を見るのは恥ずかしかった。
オレが恥ずかしがってどうする、と内心ツッコミながらも目を合わせられず、
テーブルについたグラスの跡をお絞りで拭いてみたりする。
「照れるな、照れるな」
と由美は、光一が剛とのことを言われて動揺したと勘違いして言った。
も由美に同調するように笑った。
違うとも言えず、光一は思わず剛を見る。
剛が光一の視線を避けるふりをして、ダンスの振りつけのようなウエーブをして見せたので、
一堂がドッと笑い、光一も救われたように一緒に笑った。
☆☆☆
ふと気がつくと、視線がを追っている。
そう気付いて、光一が最初に感じたのは困惑だった。
10代前半からこの世界に入って仕事をしてきて、普通の学生のように恋愛する暇などなかった。
仕事柄、キレイな女性にも沢山会ったし、尊敬できると思える人や、セクシーだと思える人もいたが、
その場限りのことが多かった。
世間でどう思われているかはしらないが、光一は恋愛に慣れているとは言いがたかった。
だから、のことが気になると自覚しても、嬉しさよりも戸惑いの方が大きい。
その一方で、に嫌われてはいない自信はあった。
目が合って光一が笑いかけるといつも笑い返してくれたし、態度にもいつも親しみがこもっている。
ただ、それが仕事相手として以上のものかどうかは、判断できないでいた。
あるとき、収録の合間に皆で何気なく話していて、光一はが舞台にも興味を持っていると知った。
ドラマの出演も増えていたは、舞台をやってみないかと最近声をかけられたという。
光一は、自分が見に行くつもりだった舞台にを誘うことを思いついた。
元々マネージャーと見に行くつもりだったが、マネージャーは特にその舞台が見たいというわけではなく、
光一に付き合ってくれるという形だったので、チケットを譲ってもらうのは容易かった。
付き合いで行くという人より、本当に見たい人が行った方がいいのだ・・・と自分自身にも言い訳し、
光一は思いきってに声をかけた。
同じ事務所の後輩でさえも誘うのが苦手な光一にしてみれば、清水の舞台から飛び降りる心境だった。
表面はさり気ない口調を心がけたつもりだったが、上手くいったかどうか自分では分からない。
は喜んで行くと言ってくれたので、光一は嬉しかったが、
半面自分でセッティングしたことなのにプレッシャーを感じて息苦しかった。
些細なことに一喜一憂する自分に疲れ、恋なんてするものじゃないなと自嘲的に思う。
剛に言ったら、きっと「おっさん」だと笑われる・・・そう思って光一は一人でに口元が綻ぶのを感じた。
☆☆☆
「楽屋に挨拶に行くから、ちゃんもおいでよ」
光一と二人で舞台を鑑賞した後、他のお客さんが動き出す前にと早めに退出した。
光一が席に案内してくれた劇場の係員の人に案内されて楽屋に行くと言うので、
も観劇の後の興奮を引きずったまま、後について行くことにした。
舞台の主役を務めたベテラン女優の楽屋に行くのは、普段ならただ緊張しただろうが、
観劇の後の余韻が残っていたは、いつもより少し大胆な気持ちになっていた。
それでも慌しくスタッフが出入りしている楽屋に入って、その中心にいるエネルギッシュな女性を見ると、
の僅かな勇気もしぼんでしまい、光一の後ろで控えめに「素晴らしかったです」などと言うのが精一杯だった。
「光一くんが女連れなんて、聞いたの始めてよ。彼女?」
主演女優の言葉に、は一層堅くなった。
「そんなこと言ったら、彼女が迷惑ですよ」
光一はにこやかに言った。
「あら、迷惑なわけないじゃない、光一くんみたいなステキな人。ねぇ・・・」
「はい!」
は、思わず反射的に応えたが、恥ずかしくなって慌てて「でも残念ながら仕事仲間です」と言った。
その後、出演者やスタッフたちが打ち上げをするから来ないかと誘われ、
は光一と一緒に行くことになった。
周りの人たちはと光一をカップルだと勘違いしているようで、隣に座れと勧められたり、変な気遣いを感じた。
は半分嬉しかったが、一方で余り思いあがってはいけない、と自分に言い聞かせてもいた。
光一はただ親切で舞台に誘ってくれただけだとは思っていた。
二人でいても気詰まりでない、程度には思っていてくれるのだろうが、
これで友達になれたと誤解して図々しくしたりしては、また嫌われてしまうかもしれないと思った。
帰るときも、当然のように光一がを送っていくものと皆が思ってタクシーを止めてくれた。
は遠慮しようとしたが、半ば強引に二人でタクシーに乗せられてしまった。
取りあえずが行く先を告げてタクシーは走り出したが、は光一に「光一くんのお家ってどこでしたっけ?」と聞いてみた。
光一が応えた場所は、の家とは逆方向だった。
「じゃあ、私は電車で帰ります。運転手さん、すみませんが、近くのJRの駅まで・・・」
「ええよ。それくらい。反対って言っても、都内なんだから。オレそれくらいは払いますよ」
「・・・でも」
「ちょっと雨もポツポツ来たし」
光一の言うとおり、タクシーの窓ガラスに、小さな水滴が振りかかって来ていた。
「・・・じゃあ、お言葉に甘えます。でも、後でタクシー代請求してください」
「いやいや、そこも甘えてください」
光一の言い方がどこか可愛らしかったので、は思わず笑みをこぼした。
「じゃあ、甘えます」
「どうぞ」
光一の応えには笑い声を上げ、つられたように光一も笑った。
「今日は、本当に楽しかったです。舞台に出演した皆さんとお話もできて、すごく参考になったし・・・」
は沈黙を恐れて、自然と饒舌になっていた。
「そう言ってもらえると、誘った甲斐があったよね」
「本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
なんとなく、探り合うような空気をは感じていた。
でも、それを感じているのは自分だけかもしれないと疑ってもいた。
失望するのが怖かった。
だがこのままただ別れてしまったら、次はないかもしれない。
前髪しかないというチャンスの神様を捕まえるのは今をおいてないのかもしれない。
雨は本降りになりつつあった。
タクシーの窓に、雨の粒が繋がって流れが出来、街の明かりは滲んで見えた。
光一の横顔を見るのは勇気がいった。
思いきってチラリと見ると、闇の中にシルエットだけが見えて、かえってホッとした。
の家はもうすぐだった。
は自分の体から光一に向かって電流が流れているように感じていた。
「私が光一くんのドラマに出演していたとき、丁度光一くんのキスシーンだったんですよ」
の口をついて出た言葉はそれだった。計算なのかそうでないのか、自分でもよく判らない。
必死な気持ちでいて、自然と口から出てきた言葉だった。
「住宅街で、ギャラリーが一杯いて・・・晴れてたんですけど、雨のシーンでした。覚えてますか?」
「・・・さぁ・・・。オレ、終わった仕事はすぐ忘れるタイプやからな」
少し困ったような光一の声には、どんな手応えもなさそうに思えた。
「私はギャラリーの人達と同じで、ただ見てるだけしかできませんでした。一応共演者だったけど、
私はまだ駆けだしだったから、とても主演の光一くんに自分から声をかけられなくて・・・。
その光一くんと、こうして一緒にいるなんて、夢みたいです」
「本物に会って、結構オッサンでガッカリしたんやない?」
光一がおどけた口調で言う。
はそれに呼応して笑った。内心は笑うどころではなかったが、一方で自然と笑い声が出た。
「元からファンでしたから、それは知ってました」
「・・・あぁ、そうですかぁ〜」
「・・・あの、また誘ってもらえますか」
その瞬間、空気が止まったように感じた。
「・・・オレ、誘うの苦手やからなぁ・・・」
光一のそういう声が聞こえたとき、は泣きそうになった。
「・・・せやから、ちゃんから誘ってくれへん?」
続いて聞こえた言葉が、ゆっくりと腑に落ちて、やっぱりは涙が出そうになった。
「じゃあ、取りあえず家でお茶でも飲んで行きませんか?」
「・・・いいね、それ。判りやすい」
思わず二人で笑った。
タクシーがのマンションの前で止まる。
二人で雨の中に降りた。
暗い歩道は雨で濡れていた。
辺りには人影はなく、タクシーが走り去るとマンションの入口の明かりだけが二人を照らした。
キスは本物の雨の味がした。
>> つづく